スピリチュアルカウンセラー江原啓之さんの幸せになる100か条からすべての人が先生だと思って生きるを読んでみた

スピリチュアルカウンセラー江原啓之さん著者の「幸せになる100か条」の本を読んで、「すべての人が先生だと思って生きる」について書かれています。
すべての人が先生だと思って生きられていますか。それともすべての人は先生ではないと思われますか。そもそも「すべての人が先生だと思って生きる」とはどういうことなのか。スピリチュアルカウンセラー江原啓之さんから学ばせていただきましょう。
意地悪は自分を磨くための材料だと感謝で受け止めるように心がけていきたい
すべての人が先生だと思って生きる
人から意地悪をされてよい気持ちのする人はいませんが、私なら「ありがとう」と心を切り替えます。感謝するのですから、仕返しをすることも、恨みを募らせることもありません。
よく理解してください。切磋琢磨というように、人と人は磨き合っているのです。
あなたに意地悪をした人は、「意地悪をする」という悪しき種をまいてくれました。幸せな人は意地悪をしません。その人はいずれ同じことで苦しむことになるでしょう。
一方あなたは、意地悪をされる人の気持ちがわかり、意地悪をしない人になれます。
相手は悪しき種をまいて、あなたに教えてくれたのです。
あなたのたましいの成長のための磨き砂として、その相手がいてくれる。だから、感謝するのです。
もし感謝できないならば、あなたは再び同じ学びをくり返すことになるでしょう。
自分が未熟なのだと受け止めることです。
神の摂理は絶対です。理解されるのではなく、理解するしかありません。
人生においてはすべての人が先生なのです。
引用元:江原 啓之. 幸せになる100か条. 徳間書店, 2017, 213P
小さいころから、学生時代、社会人と、よく意地悪されてきました。よくいじめられてきました。そのたびに、嫌だな・・・。と、避けてきました。攻撃したり、仕返しすることはしませんでしたが、意地悪されることにストレスが溜まりに溜まってブチギレしてしまったことは何度かあります。周りに人がいっぱいいてても、大声で、怒鳴り散らして、キレまくってしまって、相手がひいてしまうくらいに、感情が爆発してしまったことはあります。そのあとは、いつも後悔してクヨクヨ泣いてしまいます。
毎日が平和で終わってほしい、何事もなく終わってほしいと願いながら生きているので、ちょっとした意地悪、悪いことに敏感になってしまっていて、自分を磨くという修行がおろそかになってしまっています。すべての人が先生だと思って生きるというのは、祖父母、父母の信仰しているお寺から、似たような言葉で聞いたことがあります。ですから、どこにいてても、どんな人と関わってもそこは修行場だと教えられたことがあります。研磨で磨くということは痛くて痛くて仕方ないというたとえで聞いたことがあります。磨き続けるからこそ、輝いていくことを聞いて、毎日が、修行なのか・・・。って感じで一応理解はしているつもりです。
スピリチュアルカウンセラー江原啓之さんは「あなたのたましいの成長のための磨き砂として、その相手がいてくれる。だから、感謝するのです。もし感謝できないならば、あなたは再び同じ学びをくり返すことになるでしょう。自分が未熟なのだと受け止めることです。神の摂理は絶対です。理解されるのではなく、理解するしかありません。人生においてはすべての人が先生なのです。」と書かれています。磨かれて痛いということは、まだまだ未熟な人間であり、器が小さい自分なのだと受け止める、認めるしかないと感じました。磨かれて痛い、いつも、言われることが苦しい、悲しい、虚しいと感じてしまうこと、それを前向きに受け止めること、感謝することが大切だと書かれているのを見て、自分は今まで、ストレスをため込んでいるだけだと感じました。これからは、感情と言うストレスを溜めないように、意地悪は自分を磨くための材料だと感謝で受け止めるように心がけていきたいと思います。
まとめ
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切磋琢磨というように、人と人は磨き合っている。
神の摂理は絶対。理解されるのではなく、理解するしかない。
人生においてはすべての人が先生。